寒い季節がやってきましたね。年中、エアコンを付けているせいか、体の感覚が一定の温度しか受け付けなくなってきているなと思います。ちょっと寒いくらいだったら、暖房を消してしまおうか、体の感覚を取り戻さないとな、と最近、少し思案しています。
言語感覚。ぶっちゃけて言いますと、正確な日本語をちゃんと教わった、まともな教育を受けたという意識はあまりありません。成績は悪かったです。
てにをはがおかしいと言われてたら、以前は、言葉なんて伝わればいいんじゃないかと反発しておりましたが、最近では、素直に受け入れております。
読書体験も偏頗ですし、今、書いている文章も、文法があっているのか、そうでないのか、文脈は読み取っていただけているのか、と不安になりながら、書いております。
まぁ、それでも、言語感覚が他人と少し違っていても、なんとか人とコミュニケーションは取れますし、暮らしていける、仕事もできているような気がします。
で、何が言いたいか、ということですが、それはですね、人それぞれ、言語感覚の鋭さの範囲、また、言語の一つの領域の深さが違うのではないかということです。
ある人は、文章の文脈を読み取ることを優先する。また、ある人は、単語の正確さを優先する。また、ある人は文法の正しさを優先する、ある人は、ある文章の可能性を優先する、ある人はビジネスの文章の体裁が整っていることを優先するなどなど、というふうに、それぞれ、違うのではないか、ということです。
すべての範囲で、満点の人はおそらく、いないと思います。
そのことを前提として、私たちは日々、コミュニケーションを取っていると思うのです。
もし、その前提を認めないならば、論理的に、自分自身の言語しか存在しないことになるのではないか、と思うのです。
これを換言するならば、他者の言語も他者の言語として、解釈の可能性を自分自身に内在させる必要があるのではないか、ということです。
要するに、少々、文章や会話が成り立たなくても、ええやん、許してください、ということです笑
まぁ、そういうことです。このことは自分自身の言語感覚を疑うということでもありましょうか。
この文章が皆さんに伝われば幸いです。